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交流の場
水野忠邦の和歌
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ふすま同窓会第12代会長・鈴井正孝氏は、水野山形藩家臣の末裔であると氏から直接伺ったことがある。令和元年頃、会長を辞され顧問であった鈴井氏から、ふすま同窓会館で鈴井家に伝わる藩主水野忠邦から拝領した和歌であると見せられたのが写真である。筆跡は優美で繊細である。読んでもらいたいと言われた。大先輩からの御下命、謹んで承った。
水野忠邦は、天保の改革指導者として政治的に著名である。改革が失敗し、山形藩に転封になる前は、遠江国浜松藩主であった。
霜守山がどこの山か皆目見当がつかず、調べるのにかなりの時間を要した。なんとか辿りつくことができ、鈴井氏に手紙を認めた。
拝啓
師走の候、ますますご清祥のこととお慶び申しあげます。
いつぞや拝見しました鈴井家に伝わる水野忠邦の和歌ですが、下記のように読むのではないかと思いご報告いたします。
忠邦
海辺千鳥
霜守山 おくの海への さ夜千鳥
なきてこえ行 末の松山
霜守山は「そうまやま」で、榛名山の異名のようです。
文意は、「上毛の榛名山の奥にいる海辺の小夜千鳥は、鳴いて越えていきました、末の松山に」となるかと。末の松山は歌枕で陸奥国多賀城の地。小夜千鳥は夜中になく千鳥、これが鳴いて(泣いて)霜守山を越え、陸奥の遠地である末の松山に行きました。と解することができるかと思います。小夜千鳥は浜松の家臣団か、忠邦の妻かいろいろ当てはめることができそうです。やはり、山形に入封が決まったときの悲しさを詠んだように思います。
水野忠邦は和歌にも精通していたようです。
忠邦直筆の和歌かと思います。
コロナ禍のおり、どうぞ御身をお大切に
敬具
令和2年12月9日
今思うと、「山形に入封が決まったときの悲しさ」は深読みであったと思う。忠邦は、伝統的な和歌の作風に従い、「雅」や「もののあわれ」を詠み込んだのであろう。
鈴井正孝氏は、令和6年1月7日に逝去された。享年93歳。氏との永遠の別れを惜しみ、多くの小夜千鳥がふすまの陰で哭いたのである。



