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慈恩寺最上院
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尾崎秀真氏の「江戸川柳の楽しみ」に、縁切寺の話が出てきた。全国的に有名なのは鎌倉東慶寺である。寒河江慈恩寺も縁切寺であったことは、歴史研究家の間ではわりと有名なことである。一方、山形県民にはほとんど知られていない。
縁切寺は、駆け込み寺ともいった。寒河江市史編纂委員会委員長であった宇井啓氏は、『寒河江市史 慈恩寺最上院日記下』の解説に、「慈恩寺は日本流のアジール「駆け込み寺」として知られていたらしく、夫との不和、暴力、甲斐性なしなどの悩みを持つ女性が訴え出てくると、間に仲介人をおいて解決したりしている。」と記している。慈恩寺での駆け込み先は、別当の最上院である。「最上院日記」には駆け込みの事例がいくつか記されている。
享和2年(1802)8月28日、長瀞村(東根市)右蔵の妻であるおのゑが、最上院に駆け込んだ。おのゑは新庄出身である。右蔵は、慈恩寺一山衆の禅林坊・松蔵坊・金輪坊に妻を返してくれるよう頼んだ。9月3日、おのゑを最上院家来の恒治方に預け、仙台に送ることになった。おのゑが望んだからであろう。ところが9月9日に、おのゑは笹谷で追いつかれ、「しめられ」てしまったと恒治が報告した。「しめられた」とは、「捕まった」という山形弁である。おのゑのその後は記されていない。
慶応4年(1868)2月26日、慈恩寺観乗坊の弟が、還俗して米沢の寺泉村に暮らしていたが、寺泉村の娘を引き連れて駆け込んできた。駆け落ちしてきたのだろう。米沢から尋ね人が来て戻ってくれるよう願ったので両者を対談させたが、弟は納得しなかった。29日、駆け込みの者は、実家の観乗坊で暮らすことに決した。
同年8月20日、大谷村(朝日町)源太の倅である乙松という若者が、駆け込みを願って来たが、追い返された。乙松は他村へ婿に縁付いたのであるが、不義のしくじりで駆け込んだということである。
現代において、離婚や家族関係のトラブルでの話し合い・審判は、家庭裁判所が行っている。江戸時代の当地では、家庭裁判所の役割を、江戸幕府から2812石3斗余の御朱印をもらっていた大寺院である慈恩寺が、受け持っていたということであろう。そこに駆け込んだ者は、なにも女だけとは限らず、当然ながら男もいたのである。
(写真上は最上院表門、下は寒河江市史慈恩寺最上院日記下)



