ティーデマン碑供養について
大正10年から昭和6年まで山形高等学校のドイツ語担当として招聘されたドイツ人教師Hans Tiedemann先生は、山形の風土、とりわけ山寺を「もし、自分が死んだら骨の一部を山寺に埋めてくれるように」といわしめるほど愛していました。
山形高等学校第1回卒でふすま同窓会山形支部長であった故篠田秀男氏(篠田病院長)は、昭和32年にミュンヘンでティーデマン先生と旧交をあたためた際、「わたしが美しいこの世を去ったら、平和な山寺のどこか片隅へ小さな粗末な記念の石を置いて、そのそばにあなたに送った種から生えた白樺を一本植えて欲しい」という書状とともに白樺の種を託されました。
帰国後、篠田氏は三輪田輪三初代校長はじめ、恩師・同窓の有志を誘い、宝珠山立石寺の根本中堂の脇に山寺石を置いた記念碑を建立しました。残念ながらティーデマン先生は、昭和33年5月の除幕式を待たずに同年4月、74歳の生涯を終えました。
いま、白樺の繁みに覆われた記念碑は、立石寺の清原正田貫主によって守られ、9月29日の先生の誕生日を中心に同窓会で供養を行っています。
【令和7年度】
令和7年の夏は、全国的に記録づくめの異常な暑さが続く一方、「ゲリラ豪雨」とか「線状降水帯」とか天変地異の新しい言葉が生まれましたが、山形でも心穏やかでない日もありました。そして、いつもならお盆が過ぎたあたりから朝晩涼しくなってくるのに、いつまでも暑さが残る昨今です。
今年のティーデマン碑供養も、そのような中で無事に行われました。
9月13日(土)、参拝客も次第に多くなってきた午前10時過ぎから根本中堂前の慰霊碑の前で、立石寺の清原正田貫主の読経供養が厳かに行われました。
仙台支部から9名、山形支部から21名合わせて30名の、これまでで一番多い同窓生が集まりました。
供養の後に、清原貫主からは「大正から昭和にかけての社会的情勢の変化が厳しい時期に、山形高等学校で教鞭をとられたティーデマン先生の功績は誠に大きく、皆さんから今後も供養を続けていってほしい。また、後輩にも話をされてぜひ繋いでいってほしい」旨のお話がありました。
供養の後、門前の「ふもとや」さんにおいて、恒例の仙山交流いも煮会が、今回は山形支部が当番幹事を務めて、にぎやかに行われたことはもちろんであります。
【令和6年度】
令和6年9月14日(土)に、山形支部と仙台支部から22名の参加を得て、山寺立石寺根本中堂前においてティーデマン碑供養を行いました。
立石寺の清原正田貫主は、読経のあと、「山寺は、貞観2年(860)慈覚大師 円仁が開いた、天台宗のお山ですが、慈覚大師のお骨は比叡山延暦寺にはなく、ここ、山寺立石寺にあるとも言われています。円仁さんは中国にわたり、日本に様々なものを持ち帰りました。庶民に仏教を広げられました。皆さんも生きている姿を見せることで、後々、子供たちの大きな指標になるのです。」とのお話しがありました。
その後、門前の「ふもとや」さんで仙山交流芋煮会を開催しました。
今年は、仙台支部に幹事を引き受けていただきました。互いの近況報告や、それぞれの支部の今後の活動などに話の花を咲かせながら、仙台と山形の地酒を酌み交わし、芋煮とおそばをおいしくいただきました。